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「私」の断片、開かれた境界

 ひときわ大きな一枚のパネルと、同じ大きさの四枚のパネルが左右二枚ずつ配置されている。いずれのパネルも縦の方向の動勢が目立つ。中央のパネルはうねるような激しい筆致がらせんを描いている。左端のパネルには唯一事物が明確に描かれ、右端のパネルには白いかたまりと青いかたまりの二つが拮抗している。残り二枚のパネルは筆致がリズミカルにちりばめられている。これらのパネルはそれぞれ独立した作品ともなっているが、ここでは多翼祭壇画を彷彿させる配置となっており、絢爛たる金地の使用も手伝って、宗教的な印象を強く与えている。実際、いくつかのパネルには宗教的なタイトルが与えられている。とはいえ、あめのいちの作品は伝統的な宗教絵画とはかなり異質のようだ。

 ステートメントにおいて、たしかに彼女は「かみさま」に言及するが、それは括弧つきの「かみさま」であり、画面に直接現れることはない。それは「私の心の中、遠いところにいる」が、いまだ到達しえないものである。それゆえ、あめのいちの芸術実践は、内なる神に近づき、それを呼び出す試みである。これは「「生」の試練」とも呼ばれるが、では、彼女はいかに「生」の試練を乗り越えるのだろうか。この問いを通して、その一連の活動を検討しよう。そうすることで、本稿は五枚の作品を解釈するための下地をなすものである。

 初期に典型的に見られるのは、おびただしい数のモチーフの集積が描かれた作品である。これらのモチーフは意味上特別な関係をもたないようにも思われるが、共通点がある。あめのいちは一貫して「見えているもの」を平等に描いている。ここで「見えているもの」とは、単に直接見られるもの(例:目の前のお皿)だけでなく、表象を通して見られるもの(例:テレビ画面上の人物)や、ぱっと思い浮かんだもの(例:心のなかのトマト)も含まれる。つまり、意識に現れる対象一般が描かれる。内なる神へと迫るとき、あめのいちは自分自身と徹底的に向かい合う必要があった。そこで、彼女はこうした一見取るに足らないものでさえも重要と見なすようになる。というのも、それらは「私」を多かれ少なかれ形づくっているもの、いわば「私」の断片だからだ。そして、あめのいちは自身の断片となるモチーフの集積を描く。ここには「あふれる、集積する」ことが「生」の心地よさであり、その探求こそが「生」の試練を乗り越える手段であるという彼女の思想がある。この思想こそ、あめのいちの芸術の根幹をなすものであり、表現様式にも反映されている。

 さらに、「私」の同一性を形成するもの(例:趣味、好物、座右の銘)を思索することで、あめのいちはある結論にたどり着く。それらはたしかに「私」を構成しているが、いずれも「私」に最初からそなわっていたものではないし、さらに、他人とも共有可能である。このことは、「私」の同一性をゆるがしかねない。われわれは自他の境界を自明のものとして受け入れているが、実際のところ、その境界はどこまで確かなものなのだろうか。定かではない。そこから、あめのいちは自他の境界を、ひいては事物同士の境界を「開かれた」ものにしようと試みる。それは「私」の断片のさらなる断片化とその集積によって実現される。

 断片化は二段階ある。第一に、個々のモチーフが断片化される。この手法は初期の作品にも用いられているが、近作の方がより大胆に用いられている。たとえば、『アンプリット』と比較すると、『Golden Apple』のモチーフの多くは断片化が進み、輪郭も崩れ、識別が難しい。第二に、おそらくは絵画の問題系から出発して、モチーフを描くための筆致が断片化される。絵画とは筆致の集積にほかならないから、これは断片化された絵画でもある。近年その数を増やしてきた一見抽象的な作品群はじつはこのプロセスによるものであり、つまり具象画なのだ。われわれは背後に断片化されたモチーフをもつものとして、断片化された筆致の数々を鑑賞するため、その経験はきわめて複雑かつ重層的なものとなる。また、筆致を断片化する場合、あめのいちはモチーフの数を減らし、しばしば単一モチーフにしているという。そうすることで、断片の集積が無秩序になるのを防ぎ、美的構成を維持することが可能となる。こうした近作に至る一連の変化は、画面のコラージュ性を弱め、絵画性を強化することにつながっている。そして、ここで指摘してきた手法が、今回出展されている五つのパネル作品にも用いられているのである。

 さて、もはや識別不可能なモチーフの正体について、それは何かと知りたがる人もいるだろう。興味深いことに、あめのいちは、気になる人は作者に聞いてよいし、気にならない人は聞かなくてもよいし、何に見えてもよいと言う。境界は消し去られたのではなく、あくまで開かれているのである。あなたは本来の境界線を改めて引くこともできるし、新たな境界線を引くことも、境界線を引かないこともできるのだ。そして、あなたは自分自身と他人との境界にも、同様の選択をすることができるかもしれない。

 

解説:藍白みさお

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